トラクト
恐れとは何でしょう? 神様への恐れ 将来への恐れ 失敗への恐れ 苦しみへの恐れ 死への恐れ
苦悩や問題はどこにでもあります。病気や不幸、たくさんの悪は人生のつきものです。それらはどこから始まるのでしょうか?昔からこうだったのでしょうか?神の言葉である聖書には、これらの疑問に対する答えが書かれています。
「平安、平安はどこにあるのか?この国に、私の家に、なによりも私の心と思いに?」このどうしようもない悲鳴は何年も聞かれてきました。これはあなたの心の悲鳴でもありませんか?
人生で最も偉大な戦いは、心の中で起きています。
現在あなたは生きて、息をして、動いたり働らいたりしています。快適に生きているかもしれませんし、みじめに生きているかもしれません。太陽は昇り、沈み、あるところでは赤ちゃんが生まれ、一方ではいつも誰かが死んでいるのです。
あなたは赦されていますか?この重大な質問の答えに、あなたの永遠の未来がかかっているのです。聖書はこう教えています。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)同じ章の23節にはこう書いてあります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」私達は罪の結果から救われたいのであれば、神の赦しを見つけなければいけません。いつか私達は裁きの場で主にお会いします。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(コリント人への手紙5:10)私達は永遠に直面しており、それゆえ私達が赦されているのかを知る事が非常に重要です。もし赦されていれば、私達は天国に受け入れられています。もし赦されていなければ、悪魔と悪霊たちと共に、地獄への判決を受けることになります。(マタイの福音書25:31-34, 41)
時の流れが始まる前に神様はおられました。神様は世界と世界の中にあるもの全てを造られました。愛の中で神様は自分の姿に似せて男を造り美しい園に置きました。人間が神様の御命令に従いませんでした。この不従順の罪が人間と神様の隔てとなりました。神様は人間に、あなたたちの罪のための生贄として、完全な若い動物を捧げなさい、と言われました。これらの生贄では人間の罪の代価を支払うことはできませんでしたが、神様が備えていた最後の生贄を示すためのものでした。いつか人間の罪の代価を支払うために一人子であるイエスをこの地上におくろうとしていました。
世の光
聖書は神様の言葉であり、永遠の真理です。そこには天地創造、人の神様に対する反抗、そして罪により人に降りかかった苦痛に関する記述があります。そして人を贖うための計画を通して神様の愛を知ることもできます。産まれ、人の罪の為に死に、また人の救いの為に死から蘇った救い主についても書かれています。このメッセージを信じる人は誰でも罪の救い、安らぎ、罪に対する力、そして永遠の命という生きた希望を経験します。
神様はいるのか?全宇宙の支配者や超越した存在はいるのか?この問いへの答えは最も重要なものです。なぜならもし、神がいるとして、それをずっと無視していたとすれば、その結果はどんなものでしょう?
聖書には「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」(黙示録20:12)と書かれています。これは神様が記録しているという事の証明です。