はじめに神は世界を創造しました。神は、太陽、月、星、動物、植物を造りました。6日目に人間をご自身の似姿に造り、彼に命の息を吹き込みました。
あなたは喜んでいますか?恐れと罪悪感は喜びを奪い取ってしまいます。あなたは「どうやったら喜べるの?」と思っているかもしれません。
あなたに関すること全てを知っている人がいるのを知っていますか?神様の一人子イエスは、あなたが今までにした全ての事をご存知です。彼は世界とその中にある全ての物を造りました。彼は過去、現在、未来の全てを知っていて、あなたを罪から救うためにこの地上に来られました。その方はあなたに幸せな人生をもたらすという計画を持ってこられました。
世界の始まりについて書かれている本がある事を知っていますか?この本の書き出しはこうです「初めに、神が天と地を創造した。」そしてこの言葉に続き、世界がどのように創られ、最初にこの地上に生きた男性と女性について語られています。この本は時間の始まりだけでなく、この人生が終わった後に起こることについても教えてくれます。この本を通じて、私達は死後の人生に備えるためにどのように生きるべきかを学びます。
さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。(マルコの福音書10:13-16)
キリスト教は神様、神の子イエス・キリストと神の御言葉である聖書により成り立ち、クリスチャンとは聖書を信じイエス・キリストの教えに従って生きる人の事です。この生き方はこの地で平安と満たしを与え、天の家に入るために備えてくれます。
私は何の心配もなく、幸せに人生をスタートしました。美しい羽根を持った小さな蝶々のようで、見渡す世界は花々のようでした。自分の未来を見渡せば、人生は素晴らしいものに思えました。
聖書には美しいデザイン、堅固な構造、快適な雰囲気の家の設計図があります。家庭とは調和と満たしの場所にも緊張と争いの場所にもなり得ます。あなたの家は幸せで、力強く、人生の嵐にも耐えることが出来ますか?
聖書の意図は、サタンやその働きに焦点を当てることではありません。しかし聖書には、サタンの性格や働きを明らかにする記述がたくさんあります。
恐れとは何でしょう? 神様への恐れ 将来への恐れ 失敗への恐れ 苦しみへの恐れ 死への恐れ
苦悩や問題はどこにでもあります。病気や不幸、たくさんの悪は人生のつきものです。それらはどこから始まるのでしょうか?昔からこうだったのでしょうか?神の言葉である聖書には、これらの疑問に対する答えが書かれています。
「平安、平安はどこにあるのか?この国に、私の家に、なによりも私の心と思いに?」このどうしようもない悲鳴は何年も聞かれてきました。これはあなたの心の悲鳴でもありませんか?
人生で最も偉大な戦いは、心の中で起きています。
現在あなたは生きて、息をして、動いたり働らいたりしています。快適に生きているかもしれませんし、みじめに生きているかもしれません。太陽は昇り、沈み、あるところでは赤ちゃんが生まれ、一方ではいつも誰かが死んでいるのです。
あなたは赦されていますか?この重大な質問の答えに、あなたの永遠の未来がかかっているのです。聖書はこう教えています。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙3:10)同じ章の23節にはこう書いてあります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」私達は罪の結果から救われたいのであれば、神の赦しを見つけなければいけません。いつか私達は裁きの場で主にお会いします。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(コリント人への手紙5:10)私達は永遠に直面しており、それゆえ私達が赦されているのかを知る事が非常に重要です。もし赦されていれば、私達は天国に受け入れられています。もし赦されていなければ、悪魔と悪霊たちと共に、地獄への判決を受けることになります。(マタイの福音書25:31-34, 41)
時の流れが始まる前に神様はおられました。神様は世界と世界の中にあるもの全てを造られました。愛の中で神様は自分の姿に似せて男を造り美しい園に置きました。人間が神様の御命令に従いませんでした。この不従順の罪が人間と神様の隔てとなりました。神様は人間に、あなたたちの罪のための生贄として、完全な若い動物を捧げなさい、と言われました。これらの生贄では人間の罪の代価を支払うことはできませんでしたが、神様が備えていた最後の生贄を示すためのものでした。いつか人間の罪の代価を支払うために一人子であるイエスをこの地上におくろうとしていました。
聖書は神様の言葉であり、永遠の真理です。そこには天地創造、人の神様に対する反抗、そして罪により人に降りかかった苦痛に関する記述があります。そして人を贖うための計画を通して神様の愛を知ることもできます。産まれ、人の罪の為に死に、また人の救いの為に死から蘇った救い主についても書かれています。このメッセージを信じる人は誰でも罪の救い、安らぎ、罪に対する力、そして永遠の命という生きた希望を経験します。
神様はいるのか?全宇宙の支配者や超越した存在はいるのか?この問いへの答えは最も重要なものです。なぜならもし、神がいるとして、それをずっと無視していたとすれば、その結果はどんなものでしょう?
聖書には「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」(黙示録20:12)と書かれています。これは神様が記録しているという事の証明です。
自分の周りを見回して、すべてがどのように始まったかを考えたことはありますか?地球上には多くの動物や鳥、木々や植物があります。これらはどこから来たのでしょうか?いつもここに存在していたのでしょうか?人間ははどうでしょう?自分自身を見て、あなたの身体の仕組みを見てみてください。目を使って見たり、耳で聞いたり、手足を使い、いろいろなことをしたり、行きたいところに行ったりします。これらはすべて偶然起きた事なのでしょうか、それとも誰かによって造られたものなのでしょうか?
かつて、この世には何もありませんでした。 魚もない。 空に星もない。 海もきれいな花もない。 全て空っぽの闇でした。 しかしそこに神様はいました。
「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。(ルカの福音書15:4-6)
みんな何かを崇拝しています。物を崇拝する人もいれば、人を崇拝する人もいますし、またある人は像を崇拝し、自分自身を崇拝する人もいます。彼らは様々な方法でそれぞれの神への献身をあらわします。多くの人がそれらの神に献身を表す中、彼らの心の中には未だに満たされない切望と叫びがあります。これらの人たちは、魂の叫びに一時的に安らぎを与える物しか見つけることができず、明日に立ち向かう勇気もほとんどありません。彼らの失望にもかかわらず、未来は常に過去と同じです。彼らが奉仕している神は、彼らの人生の空虚を満たすことができません。